直虎 LOVE

  • 2017.03.27 Monday
  • 01:04

第12話にも私の心を捉えた名シーンがあった。

 

次郎が幼なじみの政次に見放され、直親の敵を討とうと槍を持ち出して暴れたシーンだ。

次郎が自分のことを責めてこう言った。

 

「どうしろと言うのじゃ。

われのせいで直親は死んだ。

藤七郎も孫一郎も大爺様も左馬介おじ様も中野殿も

われは災厄をもたらすだけじゃ。われには災厄をもたらす力だけはある。

ならばこれ以外、これ以外われに何ができると言うのじゃ」

 

 

それを見た小坊主が

 

「あの、竜宮小僧では? 次郎様は 井伊の竜宮小僧ではございませんでしたか」

 

と声をかける。

 

そして南渓和尚が次郎にこう諭し問いかける。

 

 

「己を責めたとて死んだものは返らぬ

 じゃが 生きておるものは死んだものを己の中で生かすことができる

 たとえば偲ぶことで    たとえば倣うことで    ときには倣わぬことで    他には 無いかのう」

 

 

その問いに次郎はかつて亀之丞に言った自分の言葉を思い出す。

 

「われが亀の手足となる。いざとなれば太刀を帯き、戦にも行ってやる」

 

そして自分の決意を口にする。

 

「亀にこの身を捧げる。亀の魂を宿し、亀となって生きてゆく」

 

和尚はそれを受け止める。

 

「それが おぬしの答えなのじゃな」

 

亡くなった人を悼むとき、その死に対して自分に責めはないのだろうかと問いかけてしまうことがある。

東日本大震災の時も家族の死に対して生き残った自分を責め続けている人もいる。

そんな人になんと声をかけて良いものだろうかと悩んできた。

そして南渓和尚が私にその答えをくれた。

 

津波が来たとき生死を分けた判断ミスに対して、「なんであのとき戻ったんだ!」と故人を責めたくなり、「何であのとき強引に止めなかったんだ」と自分を責めたくもなる。その二つの後悔が無限に頭の中で繰り返されている人には南渓和尚の言葉は見事な終止符を打ってくれる。

 

「自分を責めたとしても亡くなった人は返らない。でも、生きている人は亡くなった人を自分の中で生かすことができる。

たとえばその人を偲ぶことで、たとえばその人にならうことで、時にはならわぬことで、外には無いかなあ?」

 

判断ミスを犯し、命を失った人を責めるのではなく、亡くなった人のミスにならわないようにすることで故人を自分の中で生かすことができる。今回も素晴らしいメッセージを受け取った放送だった。