CSUN留学記1

  • 2006.03.28 Tuesday
  • 18:10
私が24歳でカリフォルニア州立大学ノースリッジ校CSUNに半年ほど語学留学したときの見聞録です。

手話でハロー

私の通った大学は全米でも一、二の福祉施設の完備された学校で、一般の学生達と身体に障害のある学生達が、自然体で学園生活を送っている姿は私を驚かせた。アメリカ人は身障者に対して特別な感情を抱かないようだ。又身体の不自由な学生もこれと言って気後れするでもなく、ごく普通の学生として振る舞っている。まあ、そう言って両者を分けて考える私の方がおかしいのかもしれない.....

休み時間、学生でごった返す廊下を車椅子が人をかき分けながら進んで行き盲導犬を連れた学生が教室に急ぐ姿が見られる。教室を覗けばたった一人の耳の不自由な学生の為にも手話通訳が二人付いて、教授のことばを伝えている。学生同志和気あいあいと冗談を言い合いながら勉強している。そんな自然な雰囲気と、誰にでも学ぷチャンスを与えようとする大学の姿勢に驚き、感動した。


私が入っていた寮には、耳の不自由な学生が多かった。中には耳も目も不自由な学生もいた。そんな人達と一般の学生は、実にうまく生活していた。それを象徴する出来事は、よく寮の食堂で見られた。

耳も白も不自由なキャサリンという学生が、盲導犬と一緒に食堂に入って来ると、どうやって手を貸そうかと迷っている私を尻目に、当番の学生がさっ
と彼女の手を取り手話でメニューを伝え始める。キャサリンの手のひらに指でアルファペットを綴って行くのだ。

キャサリンは声を出してそれに答える、その隙に後ろに並んでいた学生が、キャサリン用のトレーをカウンターの上に置いて、後は自分の料理を取って行ってしまう。彼女が料理の前に立つと、カウンターの奥から給仕係りの学生が、彼女の手を取り注文を聞いては料理を盛りつけてやる。

彼女はトレイを触ることなく隣りの料理の前に移動する。その間彼女を追い越していく学生が料理のトレイを隣りに移動させてくれる。同じ事がくり返されながら飲み物もデザートもそばを通りかかった学生が一つづつ揃えて行ってやる。

しまいにタイミングよくそこを通りかかった学生が彼女の料理が載ったトレイを指定席に運んでおく。彼女はちゃんとセットされたテーブルについて食事を始める。と言う様に、誰かれなしに側にいる者がちょっとずつ彼女に手を貸して行くのである。

彼女が食事をしている間は誰も近よらず、食事が済んだと見ると誰か近寄ってっては話しかける。楽しそうな会話が終わると又一人、別の学生が冗談を彼女の手の中に打ち込んで行く。彼女の盲導犬と戯れる学生もいる。実にさらりと彼女とのコミニケーションをやっている学生達を見て、私は強く心を動かされ、手話を覚える事にした。

ある日、手話の練習をしていると、アメリカ人の学生が手話で私に話しかけて来た。「へ−君も手話ができるの?」驚いてそう言った私に彼は笑いながら、寮中の学生ができる事を話してくれた。それを証明するかのように、部屋の前を通り過ぎる学生に彼が手話で合図を送ると、皆んなすかさず手話でジョ−クを飛ばして行ってしまう。私はこの時ことばで表わせない程この学校に来て良かったと思った。

それにしても、日本でこんな事があたりまえになるのは、あと何十年先の事なのだろうか。                     つづく

CSUN留学記2

  • 2006.03.27 Monday
  • 18:15
当時の私の思い込みがいっぱいですが、今の日本とアメリカやアジア諸国との関係を考える身近なヒントになるかもしれません。

○外から見た日本

外に出てみると自分の国の事が良く分かると言うが、私の場合もそれは例外ではなかった。日本の国や国民の体質についての新らたな発見はなかったが、他国の国民感情の上に映し出される日本については、良く理解する事ができた。

まず、アメリカ人にとって日本がいかにどうでもいい存在であるかに驚かされた。私はアメリカナイズされた年代の一人である。私と同年代の者はアメリカに強い親近感を抱いている。我々にとって外人は皆アメリカ人であり、外国語は米語てある。日本の日の丸は振らなくても、星条旗は振り、君が代は歌わなくても、アメリカ国歌は口ずさむ。

文化的なものはほとんどがアメリカから入って来るし、朝から晩までアメリカンポップスがラジオから流れて来る。国防、経済、においてもアメリカ無しには今の日本は考えられないし、我々の日常生活の隅々にまでアメリカは染み込んでいる。だから私がアメリカに行った時、当然アメリカ人の友達が沢山できて、彼らと肌と肌の付き合いがてきるものだと思っていた。

さらにアメリカに着いてみると、街には日本の車やオートバイが溢れ、デパートには日本製の電気製品や陶器が幅をきかせていたのだから、アメリカ国民も日本には並々ならぬ関心を抱いているものと思い込んでしまった。

ところがある日、クラスメイトに日本語を教えようと町の本屋にテキストを探しに行ってみると、語学のコーナーには日本語のテキストが見当たらない。仏、独、西、中、露、韓等と各国のテキストが並んでいるのに、なぜか日本語だけが置いてない。

何軒もはしごをしたが、無駄であった。大学の図書館にも行ってみたが、そこでも他の語学のテキストに比べれば遙かに量が少なく、あまり問題にされていない感じだった。なんで日本語より中国語や朝鮮語の方が彼らには重要なのだろうか? こんなに日本の物を使わせてもらっていながら、なぜ我々がアメリカに寄せる関心と同じぐらい、日本に対する関心を示さないのだろう。そんな事がきっかけとなって、改めて私の回りのアメリカ人を冷静に観察するようになった。

彼らが日本を何らかの形で強く意識しているのであれば、まず日本に関する情報量にそれが反映される筈である。しかし、テレビや新開では日本のニュースはあまり取り上げられない。本屋に行ってみても、日本に関するものはあまり見当たらない。街の日本製品の氾濫とは対照的である。

そう言えば、私がいくら努力しても、アメリカ人の友達ができない。こちらから声をかけると気安く答えてくれるし、向こうからも声をかけてくれる事もある。そこでもっと親しくなろうと思って近寄って行くと、どうもしっくりこない。毎回まるで初めて会ったかのような態度しかしてくれない。あまりしつこいと、怪訝な表情をされてしまう。

パーティーならと意気込んで行っても、誰も相手にしてくれない。それでいて、イランの学生や北欧の学生なんかは、実に楽しそうにアメリカの学生と打ち溶けてやっている。まるで昔からの友達の様にして。その辺まで来てようやく私にも、アメリカ人がさ程我々を気に止めていない事が理解できた。

所で、私がアメリカ人の友達作りの壁にぷち当たっていた時に、いともたやすくアメリカの学生達の気を引きつけていたのはジャパニーズギャルであった。寮には三ケ月おきに英会話学習パックの日本人学生が入って来る。古い学生が帰国して間もなく次の学生達がやって来る前夜は、寮全体が異様な雰囲気に包まれる。

あちらこちらで情報が飛び交う。「オイ、いよいよ明日来るんだってよ」「今度は女の子が20人だってさ。」「2時に着くって言ってたぞ」「じゃあ夕食は一緒だな」明らかにアメリカの男子学生は、手ぐすね引いて次のおいしいジャパニーズギャルの到来を待っているのだ。つい数日前にはそれまで居たギャル達と抱き合って別かれを惜しんでいた連中が、一変して白い狼よろしくよだれをたらしているのである。

果たしてニューギャル入寮最初の夕食は、さながら集団見合いの様相を呈する。「君の英語はうまいね。」ってな文句が彼らのくどきの第一声のようだ。白人の男子学生はなりふりかまわず果敢にアタックをくり返す。金髪で鼻筋の通った青い眼にくどかれては、ミ−ハーなギャル達は一ころである。それを食堂の隅でゴキブリの様にうずくまって見ているのが、哀れちんけなジャパニーズボーイ達なのだ。まあ私もその一人と見られていたようだが。ここでは日本男子などおよぴじゃない。

いたいけない小羊達が狼の口車に乗せられてと思いきや、ところがどっこい、内心はそれが楽しみで来ているのだから、魚心あれば水心である。日本の中年が大挙して東南アジアにヤリパックを組んて行けば、娘達も負けじとしばしの夢を見にアメリカくんだりまでやって来ている。日本人は連れションをよくやるが、連れマンとなるともはやビョーキだ。これだから日本人は外国で奇異な目で見られるのだ。(お前ら国辱だぞ!!)

それはそうと、日本人がこんなにアメリカ人の気を引いたのを見たのは、これが最初で最期であった。それ以来、寮にいるアメリカの学生達が内心日本人を見下している事に気がついたのである。

私は英語さえ話せれば心は通じ、人種の垣根など越えられると思っていた。しかし様々な国の学生達と生活して行くうちに、はっきりと白黒黄色の違いを意識するようになった。アメリカナイズされた我々が英語をしゃベれば、もうアメリカ人と何んのギャップもなくなると思った私が大間違いで、彼らとは基本的な点でちっとも考えが噛み合わないし、ほんとうに彼らの考えや行動を理解するのは不可能なようだと悟った。

私が白人を結局理解できないと知って落胆していた時、私の傍に居たのは物言わずとも心を察してくれるアジアの学生達であった。文化的、宗教的共通性の為なのだろうか。お互い片言の英語でのやり取りなのに、ことば以外のもので理解し合う事ができる。常に自己主張を繰り返していなければならない白人社会に疲れた時、以心伝心でコミニケーションができるアジア人社会は私の安息の場であった。そうしているうちに、アメリカ気触れの私にも、やっと自分もアジアの民なんだと実感できる様になってきた。

それと同時に、我々日本人が、白人、日本人、他のアジア人と、人種の序列を決め込んでいる事にも気が付いた。もちろん白人が一番上である。青い眼にはやたらしっほを振るのに、ことアジア人に対しては、はっきりと傲慢な態度をとる。(自分もアジア人なのに)

そこで一番問題なのは、日本人がそれを愚かな事だと自覚していない点である。人種差別と聞くと、アメリカや南アフリカの専売特許だと信じていて、日本にはそんな考えは全くないように思っているから仕未が悪い。ましてそれが戦争をした年代だけでなく、インターナショナルになったと思っていた現代っ子の我々の年代層までもが、その例外ではないのだから恐しくなってしまう。

白人にこけにされてもへラヘラと笑っている日本人学生が、アジアの学生に対しては露骨に発展途上人とでも言わんばかりの態度で接するのを目の当たりにすると、日本人が一番人種差別をしているのではないかと思ってしまう。寮にいた日本人学生に言わせると、アジアの学生は何を考えてるのか分からなくていやなのだそうだ。分からないのではなくて、始めから分かろうとしていないのだ。

それに比べてアジアの学生は非常に良く日本の事を知っている。インドネシアの友達は、日本の総理大臣の名前と業績を5代前までさかのぼって言ってみせた。タイの学生は日本の外交姿勢を痛烈に批判しアジア諸国を軽視する事の危険性を指摘した。

アジアの国々にとって確かに日本の経済力は必要不可決なもので、それに頼って行かなければ、現在の生活水準を保って行けないのも事実だそうだ。だからと言って日本人がそれらの国々にいばり散らしていい道理はない。ましてや民族の誇りさえも傷つける様な行動をとるとあっては、反日感情が高まらないのがおかしいのである。確かに日本人の真面日さと几帳面な性格が、仕事の面においてアジアの国々の人々との行き違いを生み出している事は残念であるが、それだけではここまで日本人が嫌われる筈はないのだ。頭から遅れていると決めつけて、理解しょうともしない態度に彼らは憤慨している。

「我々は日本人が大嫌いだ。でも日本なしにはやって行けない現実に、くやしいけれど日本人を受け入れるしかない。そんな我我の気持ちを汲んで、プライドを傷つけるような事はどうかしないで欲しい。我々だって日本人が態度を改めてくれればうまくやって行きたいと願っているのだから。」タイの友達のことばだった。 つづく

 

CSUN留学期3

  • 2006.03.26 Sunday
  • 18:21
〇カリフォルニアドリーミング 

アメリ力滞在中は二度の旅行と一度の冒険をやった。一つはサンフランシスコから西海岸沿いに国道一号線を南下するのと、二つ目はヨセミテ国立公、そして最後の冒険はバイクでの砂漠の横断である。どれもこれも心に残る素晴らしい旅であった。

アメリカの自然は実に雄大で、どこに行っても期待を裏切られる事はない。胸いっばいその景色を満喫させてくれる。だから別に穴場なんてひねくれて探す必要はない。皆んないいという所に真直行けば、それで120パーセントは満足させてくれる。

サンワランシスコは正に坂の街であった。まるで壁を登り崖を下ると言ったらぴったりするような、スリル満点のドライプが楽しめた。私が行った時は雨が降っていたので、登り坂で電車の線路に車がスリップしてひやりとさせられた事もあった。

ロソバーズストリートというレンガ作りのジグザグで美しい坂道があった。垣根で道は縁取られ、両脇には個性的な家々が並らぴ海が見渡せる。そんな道路としての機能を全く無視した物を作ってしまうアメリカ人のユーモアは、私をほのぼのとした気分にさせてくれた。

サンフランシスコから南へ2時間半程下ると、カリフォルニア有数の高級リゾート地モントレイがある。海岸線はびっしりとピンクの花の絨毯に被われ、まっ青な海と空、そしてポッカリ浮かぷ白い雲。振り返れば美しい家々。17マイルドライプ (景勝路)を走れば、海に面したゴルフ場が眼前に開け、まるで日本画の世界の様に岩が波に洗われるのが見える。

初夏の日差しを浴びながら小さなプティック街の中庭でサンドイッチをほおばれば、小鳥が飛んでさて私にサンドイッチをねだる。あ〜〜〜しあわせ。只々ため息が出るのです。

モントレイからさらに南へ一時間。なだらかな丘陵が突然崖となって海に崩れ落ちるスケールの大きな海岸線を、一望に見渡せるビックサーに出る。少し山の中に入って数少ないモーテルの一つに泊ると、管理人の兄さんが日本に居た事があると話してくれた。こういった大自然の中にいるアメリカ人は、皆んな気さくで素朴で、私にとっては愛すべきアメリカ人である。木の香り漂う部屋は、山懐に抱かれた安堵感を与えてくれて私をぐっすり眠らせてくれた。

国道一号線は、西海岸線を走る景色のみごとな道で、とても一人でドライプするのはもったいないし、よそ見をするので危険でもある。ここは友達に運転させて、しっかりと海と山の景色を楽しんだ方が徳な道である。サンフランシスコから南下すると、夕日の眩しさに悩まされる事なくドライプできるので、都合が良い。

その道をピックサーから南下すること数時間で、かの有名な。パトリシアハーストの家、新聞王ハースト氏のお城があるサンセイモンに着く。世界中から集めた美術品を入れる為に建てたと言われる城は、絢爛豪華、個人でこれだけのものを建ててしまう人のいる国アメリカ....あ−あ、ことばも出ない。
ハースト城のプール

海岸から登ること5マイル。丘の上のこの城から見渡す限りの土地がそこの所有地であり、かつては個人所有最大の動物園として珍らしい動物が飼われていたと言うのだから、もうまいったまいった。

それから私の一番好きなサンタバーバラは、海沿いにある静かで上品なたたずまいの街だ。並木のトンネル。白い壁に線の芝生、花が咲き誇る前庭、海岸に並ぷ背の高い。パインツリーに白い砂浜。おだやかな波、明るい太陽。
丘の上にはミッションの女王と謳われたサンタバーバラミッションがある。

ショーを見て、テラスのあるレストランで食事して、ウインドショッピングを楽しんだ後、浜に出て波とたわむれ、桟橋の上にある店で変わったインテリアを見つけ.....何回でも行きたい街である。

旅の話しはまだまだ尽きないかこのぐらいにしておこう。

ヨセミテ国立公園