ふるさと歴史講座のご案内

  • 2017.09.10 Sunday
  • 17:50

と言うことです。

火種塾では鍼医者一人一人の活躍ぶりを紹介しましたが、歴史講座では、米沢藩が日本鍼灸の歴史に与えた影響について考察しました。↓結果です

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米沢藩の鍼医たち   藩主を支えたもう一方の藩医たち

  • 2017.09.01 Friday
  • 22:03

9月3日(日)朝8時から9時 我妻栄記念館で 先人顕彰会火種塾講話を行います。

 

今年は米沢藩の藩主二代定勝から十二代齋憲までの側鍼医(藩主付きの鍼医者)28名の活躍ぶりを詳細にご紹介しようと思います。

 

参加自由、申し込み不要、無料です。あんびんとお茶が出ます。

 

早朝講話に是非お越し下さい。

 

我妻栄記念館は「さの医院」と当院の間です。

 

結果です↓

 

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てんかんのお灸

  • 2016.01.23 Saturday
  • 00:12
 江戸の中期頃までは鍼よりも灸の方が良く用いられていました。理由は鍼よりも安全で安く誰にでも出来て効くからです。堀内家文書でお灸の話題が出てくるものがいくつかあるのですが、特に私の目を引いたのは、鷹山公手元用人の子供が重度のてんかんを患い、3才の発症から11才になるまであらゆる手を尽くしたがダメで、堀内忠意が杉田玄白に何か良い方法は無いものかと教えを請うている書状です。てんかんの原因も治療法も分からなかった当時の人々の苦悩が伝わってきて身につまされる内容です。長いのですが意訳で紹介します。

 11才の男子癇症(てんかん)で長年患っております。医薬鍼灸に応ぜず難症です。御教示お願い仕ります。

 3才の5月26日家、に立ち並ぶ旗を望み見ていたところ卒倒し、歯をむき出しにして反張して泡を吹き半時して醒めました。その後30日ほど過ぎて昼寝をしていたらにわかに目覚めて「こわい、こわい、めめ、こわい、こわい」と啼きだし、反張して涎沫を吐き苦しみ半時して醒めました。子守の女中が言うには先刻殿が蛇を庭でご覧になられたので、めめと言っているのはその蛇のことだろうと。この時もいろいろな薬を用い、その後暫く何のこともなく家内安心していました。

 4才の2月痘瘡にかかり熱が出たときに発作を起こしましたがすぐに醒めました。熱が出て出痘無難に収まりこの時は痘瘡の熱によるものだろうと心得ました。またその冬に至って庭で遊んでいるときに卒倒し、以前の如くの有様でした。その後は4〜5日おきに、又は昼夜6〜7度も発作を起こすことも出てきました。この頃海人艸湯を投じたところ蛔虫十余条下ったのですが症状が減る事はなく家内で心痛しました。

 5才の2月又々発作を起こし、これまでは覚醒後意識は人並みでしたが此の節は違って大発作になり、昼夜60〜70度の痙攣を起こし誠に目の当てられぬ有様でした。その後は発作に順い次第に愚鈍になり手足半身不随、言語も半ば出でず、その頃は夜に発作を起こし醒めた後は声を発して啼く事が間々ありました。

 また、3月頃に至り発作を起こし人事不省になり、ぴくりぴくりと衝心(心不全と呼吸困難)し手足の痙攣を押さえた看守の手を衝き上げる状態でした。昼夜30〜40度発作を起こし6才の7月には家内親子兄弟の見分けが付かなくなり大小便もおしえず、衣も床も汚す様になりました。

 家内は気の毒に思いいろいろと相談をしこれまで尽くしてきた医薬も全く効果なく術も尽きたとなったので、主人自ら灸をすえる事にしました。その節は菓子を席上へ散らし、子を伏させ置いて9つのツボへ数壮づつすえたところ、一向に火熱も平気で毎日お灸をすえること6〜7日迄は熱がらず、その後は日増しに熱さを感じ始め、「痛い」と言うようになりましたが、普通の人が熱がり苦しむような様子ではなく、30日ぐらいして初めて「あつい」と言いました。

 それでも忍びかねる様子ではなく、灸の徳なのでしょうか1年半ほど無難に過ごし、次第に快く見え言語が明瞭になり教えることも理解するようになり飲食も自ら自由になり、手足も自在になりました。その前は誠に1〜2才の小児玩具を手に持って遊んでいましたのに万事年相応になりました。

 8才の2月主人が申すにはお灸のお陰で久しく無難に過ごしてきたので又々お灸をすえようと2〜3壮すえたところ少々発作を起こしすぐに醒め、数壮すえてみましたがこの度は灸の効果もなく又々昼夜たびたび発作を起こし、発作の際に遺尿するようになり、特に夜分は数多く発症し、長年の鍼灸医薬も役に立たず全快しないものと捨て置かれ、当4月中頃又々大発作を起こし12日より14日まで数度発作を起こし3日間絶食人事不詳になること2夜3日して次第に覚醒しその後は夜分多く発症し、一夜の内に2〜3度あるいは3〜4度になり、ちょっとの間も看守が離れることが出来ないまでになりました。

 当時は飲食両便常の如くになるとも意識、言語、歩行など2〜3才の小児の如く何事も分からず、看守の下女も困り果ててしまいました。欲しいと思っても口に出せず他人が分からないので唯々短気になり弱ってしまいました。うわごとを言うようになり、泣くでも笑うでもない声を発する事もたびたびあり、小生が脈を診るに平常は沈んで実した状態で、腹状も常に苦満気味でこれまで数年来の看守の者が油断した節、足を踏み外し火傷を2度もさせてしまいました。

 さて、その傷が爛れている間は2度とも諸症状や発作は起こりませんでした。且つまたこの子はたびたび虫が下り、常に涎を垂らしています。5〜6日も平穏だと言語も手足も自ら和らぎますが、発作を起こすと格別強くなります。奇方(稀な薬)も尽くしましたが寸効もなく家内は痛み入っております。

 この子3才の頃は世間の子よりは格段に才気も有り、末頼もしいと他人も見ていたほどの生まれでしたのに誠に惜しむべき事と申せます。長く発作が起きないと万事快く見えるのですが、11才の小児が全快する方法はあるものでしょうか。蘭人は如何な説を申すのでしょうか、奇方の妙術がございましたらそれを以て救いたいと存じ奉りますが、何とか御工面下されて御教示給わりますよう願い奉ります。

 右の小児は中隠居(鷹山)手元用人として勤めている者の子です。ご隠居様がこの病症を聞き及び殊の外心痛致され、この上何とか快気の筋が有るのではないか。猶以て治療を致させたく、なるだけ人事を尽くさせたいお考えでして、老先生へ申し上げて、奇術、妙方もございましたら用いたいと思っており、細々と容子を申し遣わして御教示をお願いするよう申し付けられました。

 お忙しく在られることは承知奉りますが、格別に申しつけられた事ですので心なき事にございますでしょうが御賢慮をもって一日も早く治療を尽くしたいと思っております。どうかお願い申し上げます。いづれか急ぎの便でご返事下されば何にもまして安心致します。返す返す恐れ多いことではありますが急便にてご返事を下されれば、ありがたき君慮とて家を挙げて感涙するでしょう。この上は一日も早くと唯々願うばかりです。先生の御返書はもちろんこの書面を認めぬ内にも半分治ったかの様に喜び申す様子にございます。唯々ご返事を急便にてお願い申し上げます。

中略 (これに続く文章は忠意自身のインキンタムシの相談と朝鮮人参を米沢で作ったことの報告が続きます)

10月26日                                                   堀内忠意

杉 玄白様 玉机下

 何度読んでも言葉が出ません。当時の知識と技術では如何ともしがたい現実に苦悩する医師達の姿が目に浮かびます。
とは言え、ここに記されたお灸の効果は目を見張るものがあります。深谷灸法にも、良く効くときは最初は不思議と熱くなく、次第に熱さが通ってズーンと響くと効果が現れると教わりました。実際にそうした経験も少なくありません。この書面でも不思議と患児は熱がらず、すえ続けて熱さが通ったら効果が現れた様子が書かれており、私が教わった事もここに書かれていることも本当なんだなーと感心しています。最終的に治せてはいないのですが、いろいろ試した中ではもっとも効果があったことは確かで、しかも一年半という長い間効いてるのも素晴らしいですし、ほとんど正気に戻り、身体も普通になった事実は驚くばかりです。また、火傷を負った時も傷が治るまでは発作を起こさなかった事が書かれてあり、注目に値します。

 補足ですが、明治初期には草津温泉での熱湯浴と1000壮ものお灸治療で、癩疾(らいしつ)を完治させていたことをドイツ人医師エルウィン・ベルツがドイツ内科学会で紹介しています。また、代田文彦先生のお父さん文誌先生はお灸でご自分の結核を治して鍼灸師になったそうです。今、モクサアフリカというプロジェクトがアフリカで行われています。結核が治るまで薬を使い続けるお金が無くて耐性菌が蔓延している問題をお灸で解決しようとする試みです。お灸は痕が残る治療法ではありますが、本当に困った時は自然治癒力を発揮させて難しい病気を良くする力を持っているようです。

 代田文彦先生は「本当に病気を治すのはお灸だ」とおっしゃっていました。もう一度お灸と正面から取り組む必要を感じています。
 
 さて、堀内家文書についてはこの辺で一区切りにしたいと思います。最近は江戸時代の米沢藩における鍼医者の事をいろいろと調査中で、5月には鷹山大学で講演しようと準備しています。いずれその話も紹介したいと思っています。お楽しみに。
 

堀内家文書に見る水蛭、刺絡、焼鍼

  • 2015.12.10 Thursday
  • 12:36
鷹山公の膝痛の続き

鷹山公の膝は馬に乗るときに膝をくじいて水が溜まり慢性化していたところに虫に刺されて化膿したようで、当時の医学知識では蘭方でも漢方でも鍼でも湯治でも的を射なかった事が伺われます。現代医学的には化膿巣の外科的処置を主に、膝のMRIで慢性の関節水腫の元は何か調べる事になるのでしょうが、当時持ち合わせた技術の中で、なぜお灸と瀉血を利用しなかったのかなーと臨床家の私としては首をかしげます。

お灸は化膿巣の側に多壮することで効果を発揮します。さらに瀉血も効果を期待できたと思われます。書状の中に鷹山公は酒が嫌いなので、薬を酒で蒸して使うのは逆上されたりめまいを起こされたりしては恐れ多いのでやらないと書いてあることからして、お殿様に苦痛を与えるような治療は差し控えていたのかもしれません。 

瀉血治療と焼鍼

ところで、鍼灸の治療法で隠し技的に使われてきたのに瀉血法や焼き鍼があります。瀉血は世界各国で行われてきた歴史があり、こと漢方に限った治療法ではありません。傷を付けて絞ったり、吸い玉を付けて吸い出したり、蛭を付けて吸わせたり、現代では血管から抜いたりと方法は様々です。最近は血液感染症の問題があり、鍼灸界では瀉血法をタブー視していますが、私の小さい頃には蛭付けをする人がいたものです。今でも細々とやられているようですが、実はこれがうっ血が原因で起こっている症状にはもの凄く効きます。ただし、その適応を見極めるのが難しく、闇雲にやると貧血を起こし困ったことになります。

江戸時代の蘭方医でも使っていたようで、坪井信道(江戸で開業する蘭方医)から堀内忠亮宛てに書かれた手紙の中に日野の奥様(日野主税資敬夫人)を診察した様子が綴られており、その中に下腹部や腰に水蛭を付けたことが載っています。(この方は産後が悪く乳腺炎も悪化して膿が出る事態となり、男子出産後3ヶ月で亡くなっています)

さらに高橋玄勝(米沢藩医)から志賀八右衛門(米沢藩仲之間年寄)に宛てた手紙にも高橋玄勝が入門した蘭方医吉雄定次郎は癩疾(らいしつ)の治療が得意で、この春にも三人治療して全快したことが書いてあり、その治療方に刺絡と焼鍼を使うとありました。(刺絡とは皮膚表面に見られる細い血管を針で刺して血を出す方法で、焼鍼は鍼を焼いて刺す方法で最近これを復活させて使っている人もいるようです。)

刺絡や焼鍼のやり方もいろいろあったようで、文中には「神代という医者が施したような絡を割り破血させる論とは異なり」云々とか、「焼鍼は江戸の片倉玄周が施した焼鍼ではなく、常の焼金で昔から伝えられているもので」云々といった記載が見られ興味をそそられます。

これらの記述から見ても、蘭方医は今の西洋医学の医者ではなく、新しく伝わってきた和蘭陀の薬や外科のやり方を取り入れた漢方医と言い表した方が実態を捉えているように思います。また、前述でも分かるように、蘭方医の吉雄定次郎が刺絡や焼鍼を使って治療しており、鍼灸も有用な治療法の一つとして使われていたことが分かります。

鷹山公への治療 ありったけ

  • 2015.11.27 Friday
  • 01:29

 以前紹介した鷹山公の膝治療に施されている手立ては、考えられる物をありったけ。といった感じです。主に飯田幽澗(いいだゆうかん)が治療に当たっています。やっていることを順に並べてみますと、
 
  1. 礬石(ばんせき、みょうばん)樟脳湯(クスノキの木片を水蒸気蒸留して作る。カンフルとも呼ばれる。血行促進や鎮痛、消炎、鎮痒、清涼感をあたえる作用などがある)、
  2. よくいにん(ハトムギの種から作られる生薬で、イボ、ニキビやアトピー、シミ、ソバカス、などに効く)甘草(喉の痛みや、咳を鎮める)の煎じ薬、
  3. カンフラ辰砂(しんしや)(鎮静、催眠に使う硫化水銀)、
  4. 古粕を煎じた足湯、
  5. 按撫、按蹻(もみりょうじ)
  6. 温法、
  7. エンフラストハチリコム(松ヤニの硬膏)を木綿にして湿布、さらにカンフラテリアーカ(樟脳の解毒膏)を加えその周辺に塗る。
  8. 温泉、
  9. 鍼、
  10. 六君子湯(胃弱、食欲不振、易疲労、貧血、冷え等に用いる)、
  11. カンフルブラントウェイン
とこれだけありました。漢方、蘭方、民間療法、鍼、湯治と手当たり次第と言う事がお分かりいただけると思います。この中で効果が見られたと思われるのは、湿布ぐらいでしょうか?
 

整骨術、蘭人の灸治

  • 2015.11.07 Saturday
  • 01:27
   順を追って堀之内文書の中から拾った面白い言葉を見ていきましょう。まずは整骨術と蘭人の灸治です。  

 堀内忠意と言う米沢藩の医師と解体新書で有名な杉田玄白がやりとりした書状の中で「最近は杏蔭斎と申す人が伝えた整骨術と云う珍しい術を行っています。」と杉田玄白が書いています。

 この吉原杏蔭斎と言う人は長崎の正骨家で、「杏蔭斎正骨要訣」という本を残しています。珍しいと評しているのはその術の名前からもうかがえます。

 例えば、熊顧術、風車術、遊漁術、燕尾術、騎龍術といった名前の術があったようです。(杏蔭斎正骨術名之目より)なんか、中国拳法の名前みたいですね。この頃にも整骨術があったんですね。

(長崎大学付属図書館サイトより)
 さらにこの書状の中に「蘭人が灸治療をしたという話を詳しく教えてください。」と堀内が杉田玄白に尋ねています。これに対し玄白は「灸治療をしたのは蘭人ではなく唐人の間違いです」と返事しています。ちょっとコントじみたやりとりですね。

 お灸は安土桃山時代ごろから盛んになり伊吹山でヨモギが栽培され始めたそうで、江戸時代も盛んに行われていたようです。

 堀内家文書だけでなく直江兼続の書いた諸薬方書の中には、種物之秘灸、脚ノツリ痛灸、癰疔灸、寸白之秘灸、草気ニテ目ノ損シタルニ秘灸、下血長血ノ秘灸と六種類もの灸法を書き記しています。いかに盛んだったかが伺えます。
 
 

江戸時代の米沢での医療

  • 2015.11.06 Friday
  • 00:49
 10月2日のブログに書いたように、上杉鷹山公が鍼医者を側に置いていたことが分かったので、俄然当時の事に興味がわいてきた。「米沢藩の中で鍼医者はどんな風に扱われていたのだろうか?」「当時の医療は漢方と、蘭方と鍼灸がどんな風に混じっていたのだろうか」そんな疑問の答えを探そうと博物館から買ってきた図録を目を皿のようにして読んだ。

 すると、あるわあるわ、面白い単語が沢山拾えた「整骨術、蘭人の灸治、按蹻、電気治療器カルハノ、水蛭、医薬鍼灸相応ぜず、主人自ら灸点し灸すえ候由、焼鍼、刺絡服薬と煎湯、蛮薬の水薬、和漢の外科治法、血止めの艾」

 まあ一般の人にはこれらの言葉が何のことだか分からないだろうが、鍼灸師の私には心躍る発見だった。やっぱり。思った通りだ。」私は内心にんまりした。

 9月27日に初めて特別展「米沢藩医家の系譜」を見に行ってから今日までの間に私は古文書と医学史に没頭し、わくわくする時間を過ごすことになった。その下りを順を追ってお話しながらこのブログの読者に鍼灸師の目から見た江戸時代の医療の様子を知っていただこうと思う。お楽しみに。
 

鷹山公も鍼を受けていた

  • 2015.10.02 Friday
  • 23:14


   上杉博物館で九月から始まっている特別展「米沢藩医家の系譜」を見てきました。米沢はかつて東北の長崎と称されるほど蘭学が盛んで、その資料がいくつも残っているのですが、その中に鍼医者に関する記述はないかと思って行ったのですが、、、、、、、ありました!

   鷹山公の側医堀内忠意が杉田玄白に宛てた手紙に、何と鷹山公が膝を痛め、手を尽くしても治らず赤湯で湯治をしてもダメなので、鍼医者を呼んで鍼を打ってもらったという記載が見つかりました。
(この時呼ばれたのは2代目の嶋坂仙益だったのではないかと思われます。)

   足の三里に鍼を打ったら指先までよく響き、足の甲から大きい豆状のものが出てきたので、それを堀内忠意が見させられたけどなんだか分からず、不思議に思ったと書いてあります。

   この鍼治療がどのぐらい決め手になったのか私の読解力では分からないのですが、結果的には良くなって皆で宴会を開いたとありました。

   江戸時代までは将軍の側にも鍼医者が仕えていたので、米沢でもそうに違いないと思って調べてみるとやはり記録に残っていました。

鷹山公も鍼を打ってもらってたんですね。
 

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